朝ドラ【らんまん】南方熊楠は何がすごい?研究成果と気になる人柄について解説!

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南方熊楠 トレンド
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南方熊楠は「みなかたくまぐす」と読みます。

朝ドラ「らんまん」に名前が出てきて、また万太郎が「会ってみたい」と言っていたので、気になっている方も多いのではないでしょうか。

この記事では、南方熊楠さんは何を研究して成果を成してきたのか、植物学との関係性について紹介します。これを読めば、南方熊楠さんについて詳しくなる上に、朝ドラ「らんまん」が一層楽しく視聴できるはずです。

また、南方熊楠さんと牧野万太郎さんは、本当に会ったのか?についてもご覧いただけます!ぜひ、最後までお読みください。

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南方熊楠は何がすごい?

南方熊楠氏は、国際的に権威のある科学ジャーナル「ネイチャー(Nature)」に、1893年から1914年までの期間に合計50本の記事を寄稿しました。

50本の論文には、日本の星座・粘菌・植物・動物・民俗などに関する彼独自の視点や発見が含まれています。特に印象的なのは、南方熊楠氏が26歳の若さで執筆した最初の論文「東洋の星座」で、これを通じて彼は日本の自然と文化を世界に広める役割を果たしました。

植物関係の論文を書いていた経歴から、牧野万太郎さんと繋がりが持てたと考えられます。

ネイチャーとは?
「ネイチャー(Nature)」は、1869年にイギリスで創刊された週刊科学ジャーナルで、幅広い学問分野からの査読済み研究論文を掲載しています。この総合科学学術雑誌は、科学技術に焦点を当て、世界で最も引用される科学ジャーナルの一つとされ、また、世界中で高い評価を受け、権威を誇る学術ジャーナルの一つでもあります。さらに、社会的に関心の高い科学関連ニュース、解説記事・社説・批評なども提供しています。

「東洋の星座」はどんな論文?

南方熊楠の初論文である「東洋の星座」は、彼が1893年にイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に発表した論文です。この論文では、南方熊楠が中国古代の星座体系である28宿について詳しく説明し、それをインドの星座体系と比較しています。

同時に、日本の星座にも触れ、東洋において独自の天文学や科学思想が存在したことを示唆しています。この論文は、南方熊楠の幅広い学術的興味と国際的な視点を反映しており、彼の学問的多才さを証明しています。

学者の論文がネイチャーに掲載される確率は?

「ネイチャー(Nature)」は、国際的な総合科学ジャーナルで、掲載される論文はその独自性、重要性、社会的影響などの観点から厳格な査読プロセスを経て選ばれます。このジャーナルでの論文掲載率は非常に低く、毎週約150本の論文が提出される一方、実際に誌面に掲載されるのはおおよそ20本に過ぎません。つまり、掲載率は約13%にとどまります。

また、ネイチャーに論文を掲載するには高額な掲載料が必要で、約9,500ユーロ(約120万円)の料金が設定されています。ネイチャーでの論文掲載は学者にとって非常に名誉なことですが、同時に大きな財政的負担を伴うこともあります。

南方熊楠の研究成果について

南方熊楠は、博物学、民俗学、生物学などの多岐にわたる分野で印象的な研究成果を積み上げています。彼の特筆すべき業績の一つは、変形菌に関する研究です。日本の変形菌相において、彼は178種もの新種を発見し、その成果は高く評価されました。

さらに、南方熊楠はキノコ・藻類・コケ・シダなど、さまざまな植物についての研究も行い、植物学と生態学の発展に貢献。また、東洋の星座や日本の民俗に関する論文も執筆し、国際的な視野を持つ卓越した学者であることを示しました。

南方熊楠は、自身の興味を持ったさまざまな分野において知識を蓄積し、多彩な学問的興味を披露しており、知見の深さを知らしめるところといえるでしょう。

南方熊楠の人柄について

南方熊楠

写真引用元:南方熊楠顕彰館公式HP

南方熊楠は、純粋な学者だけでなく、多彩な魅力を備えた人物でした。ここでは、南方熊楠がどのような人物だったかについて紹介します。

学問が好きだった

南方熊楠さんは学習が好きで、幼少期から自然界への深い興味を抱き、植物、動物、昆虫、貝類などを収集し観察していました。彼の学業も卓越しており、古典文学や漢詩などに堪能で、英語・フランス語・ドイツ語なども流暢に話すことができたと伝えられています。

信念を曲げない性格だった

南方熊楠さんは、その個性も際立っており、自身の信念に固執し、時に周囲と対立することもありました。例えば、彼は天皇制に反対の立場を持ち、明治天皇の進講を辞退したといわれています。

また、民俗学に関しても、日本の伝統文化や風習を熱心に調査し、広めながらも、その中には一般的でない見解も含まれ、時には批判されることもありました。彼は自分の信念を曲げずに、自身の価値観を尊重し続けることを大切に考えていました。

南方熊楠は愛猫家だった

南方熊楠は、イギリスからの帰国時に、宿泊先で飼っていた猫を連れて婚約者の松枝さんに会いに行くなど、愛猫家であったことが知られています。彼は自宅の庭に現れる野良猫たちに食事を提供し、また、自ら描いた猫の絵を残しました。

熊楠は、飼い猫のほとんどに「チョボ六」という名前をつけ、愛情を注いでいました。彼は猫と共に過ごすことを楽しむ、猫好きな天才学者だったことが分かっています。

南方熊楠は牧野万太郎とは会っていない!

南方熊楠と牧野万太郎は、直接会ったことはなかったが、手紙を通じて緊密な交流を持っていました。南方熊楠は、自身が収集した植物の標本や情報を牧野万太郎に送り、その対価として感謝の手紙を受け取っていました。この手紙のやりとりは、彼らを植物学への情熱で結びつける友情を築いていました。

南方熊楠と牧野万太郎の手紙のやりとりは、1903年から1941年まで、約40年にわたって続きました。南方熊楠が亡くなるまでの間、彼らは植物に関する情報や感想を交換し合い、その手紙は日本の植物学史における貴重な文献となっています。

南方熊楠の生い立ち

南方熊楠は、1906年に和歌山県田辺市の闘鶏神社の宮司の四女である松枝と結婚しています。当時、熊楠は40歳で、松枝は28歳でした。熊楠は猫好きとしても知られており、結婚前に松枝に会う口実として、汚れた野良猫を松枝のもとに連れて行き、洗ってもらうエピソードがあります。

熊楠夫妻には息子と娘がいましたが、子孫が続かず、最終的に途絶えました。娘の文枝は父熊楠の最期を看取り、父の業績を語り継ぎましたが、2000年に亡くなっています。また、息子の熊弥は統合失調症を発症し、病気が癒えず1960年にこの世をさりました。この出来事は熊楠に大きな影響を与え、父としての彼の生活を一変。熊楠は熊弥を気にかけ続け、好きだった飲酒を止めました。

まとめ

南方熊楠さんについてのまとめは、以下のとおりです。

  • 科学ジャーナル「ネイチャー(Nature)」に、1893年から1914年までの期間に合計50本の記事を寄稿している
  • 「ネイチャー」に、最初に掲載された論文は「東洋の星座」である
  • 学問が好きな方で、語学は英語・フランス語・ドイツ語が話せ、植物・動物・昆虫・貝類などにも造詣が深い
  • 信念を曲げない性格から、変わり者と思われることも多かった
  • 愛猫家だった

牧野万太郎さんとの面識はなく、今後ドラマに出演する可能性は極めて低いです。しかし、名前だけでも視聴者に強烈な印象を残したことは、間違いありません。

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